FESSと私
FESSに通ってほぼ一年が経ちました。
英語への思い、思うように話したり、読めたり出来たらなという憧れのようなものが学校時代〜仕事時代を通じて自分の中で燻り続けていました。多少仕事で使っていたとは言え、本格的な勉強をしたわけでもなく、中身はスカスカ状態でした。
そして、もう少し英語をやってみたいという漠然とした思いのまま入会してしまいました。
しかし、いきなり、自分の実力そのままをまざまざと確認することになるわけです。言いたいことがいえず何度も立ち尽くす。その度にかく冷や汗。
しろくのガマよろしく、脂汗をたらーりたらーりと流すことになります。
また、ネイティヴ講師の容赦ない機関銃のように放たれる生の音がただ耳を通り過ぎて行きます。マテリアル(教材)の内容は、日本語でも考えたことのない様な骨太のテーマもあって戸惑うこともしばしば。見慣れぬ単語にも、文意の取りにくい英語の言い回しにもいくらでも出会いました。
こうした辛い体験の連続ではありましたが、回数を重ねる内に、何とも捉まえようのない生の音も、あまり一々を気にしないでいると、不思議にいくつかの生音がつかめるようになり、何となく一人嬉しくなってきます。
続けて見ようと思ったのは、こういう些細な喜びがあったからかも知れません。捉まえられる音が段々と増えてくる。難しげな単語にも、英語らしい表現にも少しずつ慣れてくる。これは他には代え難いもののように思いました。
また、とにかく口に出すこと、基本の表現を口に慣れるまでトレーニングすること、このことの重要性もこの間に実感したことの一つでした。
読めた、理解出来た、それで話すことも出来ると思っていたかつての大いなる勘違い。読むと話すと大違い。こんな基本的なことも分かっていなかったのだという思いに至る訳です。
FESSのレッスンに出て実際に話すことが相手との練習試合だとすると、テニスで言えば壁打ち、野球ならバットの素振り、そういう自主練習が絶対に必要で、成果をわずかでもこの練習試合で確認するということが重要なのだと思いました。
そして、英会話はどうやら知識というより技術のような気がしています。
頭でいくら分かったつもりでも、実際に口が動いてくれませんし、これは訓練でしかその技術を身に付けることが出来ないのではないかということです。
楽しむというよりむしろ自分にとっては苦しみに行く会にどうしてわざわざ通うのか?
残り時間もそれほど長くは無いのになぜなのか?
流した冷や汗の量だけ進歩出来るという実感がその答えに繋がっています。
去年の冬、木枯らしの中を通えるかと自分に疑心暗鬼が襲います。不思議なものです、レッスン日が来ると足は自然そちらに向いて歩き始めるのです。
あっという間に一冬が過ぎて行きました。この会でこうして改めて自分と向き合うことになって、自分の中の多少の前向きな気持ちが刺激されているのかも知れません。
いつか、I wish I could be a good English speaker.という仮定法を使わなくてもいいようになりたいと思っています。
Nob